第二次世界大戦後の混乱期。日本はどう立ち上がるべきか。未来を憂う小澤が復興のシンボルとして夢を託したものこそ、超音速滑走体だった。
東京帝国大学(現東京大学)工学部船舶工学科を卒業後、三菱重工に入社した小澤。開発を担当した四式重爆撃機『飛龍』は、当時最速の時速540kmを実現し、大きな成果を収めた。しかし、敗戦国となった日本は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により全戦闘機を処分、さらに新たな航空機の生産も禁止。小澤の飛行機設計の道は断たれた。
しかし小澤は諦めなかった。1953年、名城大学理工学部の教授に就任した小澤は、「飛行機づくりができないのなら、地上で飛行機の速度を上回る乗り物を実現させよう。そして、人と物の流れを加速させ、日本を復興させたい」と考えた。そうして新たに取り組んだものが「音速滑走体」であり、さらに音速(時速1240km)を超えた「超音速滑走体」である。
小澤は生前、研究室の学生に「地下資源の乏しい日本は、技術力を世界に知らしめていかなければならない」と語っていた。単なる目新しさではない。世界を、時代を、振り向かせるためには、人々を驚かせる圧倒的なものでなければ意味がなかった。「超音速滑走体」は、小澤の夢と日本の希望を乗せた特別な乗り物だったのだ。