特設サイト1期生の卒業名簿
商学部からのスタート
戦後の学制改革により、1949年には全国168の新制大学(国立70校、公立17校、私立81校)(文部省)が開学した。名城大学もその中の1校として誕生。1947年に開設された名古屋専門学校からの昇格で、設置者は財団法人名古屋高等理工科学園(田中壽一理事長)だが、設置学部は理工学部ではなく商学部として1949年4月20日付官報に認可が告示された。
大学開設準備スタッフの一人だった平野広安氏は、『名城大学附属高等学校60年の歩み』に商学部が最初の学部として申請された経緯を寄稿している。平野氏は軍隊入隊前に田中氏の紹介で名古屋帝国大学の航空学教室の助手となり、戦後すぐ、田中氏の要請で名古屋高等理工科学校機械科の教員になったという経歴とともに、田中氏宅2階での設置認可申請作業の思い出を振り返っている。(抜粋)
思い出に残るのは、大学創設の申請書やその図面などのことで、田中先生のお宅で、色々と用事のお手伝いをしたことです。一寸手がすいて、一休みしていたとき、田中先生が私のそばに来られて、「平野君、実はね」と言われました。僕に何のお話があるのかと一瞬思いました。すると田中先生が、「法商より理工を先に創りたいが、法商を先に出した方が、理工を創るのにやりやすいようだからね」と言われました。
〝急がば回れ?と言うことでしょうか。要は理工が目標のような口吻(こうふん=くちぶり)でした。先生のご専攻から、当然のことでしょうと思いました。とにかく、先生は、学校にことに格別熱心でした。之が結局功を奏して、今日の名城のように大きくなったのだと常々感じております。
田中理事長宅2階での認可申請作業
平野氏とともに田中理事長宅2階での大学設置認可申請書を作成にあたった山本修三(元理工学部事務部長)が書いた申請書作成担当者7人の配置図が名城大学あてに郵送されてきた。2014年当時だが、山本氏から渉外部に届いた封書には以下の手紙が添えられていた。
「前略。私は名城大学設置認可申請書を作成したメンバーの一人です。それは、昭和23年の事です。参加メンバーは次の通りでした。桜木俊一教授(法)、今井鋹生事務局長、坂田平七郎、山本修三、螺澤一男、平野弘安、村上藤吉の七名です。枇杷島にあった田中壽一先生宅二階南の部屋で作成されました。私は一番年下のメンバーでした。」
配置図には、「いつも忘年会はこの部屋で行われました」とも書き加えられていた。山本修三氏は1971年当時の理工学部事務部長で、同学部同窓会報8号には山本氏の事務部長就任のあいさつが掲載さている。山本氏は「私は昭和37(1962)年10月まで、中村校舎の木造時代に教務係をしておりました」と自己紹介している。
1期生74人の「学友名簿」
商学部1期生の大半が1953年3月に卒業したが、水野氏は卒業時の「学友名簿」も所蔵していた。入学時の「商学部第一部」は、卒業時は「第一法商学部商学科」に変わっていた。名簿に収録された卒業生は74人。ガリ版刷りで、席次、氏名、生年月日、現住所、出身校、所属専攻、就職先、特技、就職先住所が記載されている。
生年月日をもとに、1949年4月1日時点での入学年齢を見ると、18歳が30人(40.5%)、19歳22人(29.7%)、20歳10人(13.5%)で、1925年1月生まれの24歳もいた。
出身校が新制高校と推定される卒業者は28人。半田中、岐阜一中、東邦商業学校など旧制中等学校と書いた卒業生が21人。名城大学の前身である名古屋専門学校出身者14人を含めた早大専門部など旧制専門学校出身者は17人だった。
水野氏は1943年4月に旧制東京府立二中に入学。学制改革で1948年に新制高校が発足したが、水野氏は新制の都立第二高校(立川高校)3年生に進級し、1949年3月、同校第1回卒業生となり、名城大学でも1953年3月に22歳で第1回卒業生となった。
初代応援団長だった山田昭治氏も1期生。名古屋の私立工業学校を経て1948年に名古屋専門学校応用物理学科に入学したが、学びたかった建築科ではなかったため商学部に進路変更した。 名簿には初の女子卒業生となった岸本三和子さんの名前もある。「名城大学新聞」第5号(1951年2月3日)は、「さる27、28日に行われた第1次入試に南山大学講師岸本氏夫人三和子さん(22)は商科の編入試験に合格した。夫人は神戸経済大付属経営学専門部卒」と紹介されている。岸本さんが水野氏と同じグリークラブ(コーラス)部に所属しており、水野氏のアルバムにその写真も残っていた。
就職先では銀行や証券会社、名古屋市役所、熊本県庁など。在学中は部活として関わったとみられる「特技」では空手、柔道、卓球、テニス、野球、拳闘、スキー、乗馬などのほかに球算、油絵の書き込みもある。
2024年度で20万人近くに及ぶ名城大学の卒業生たち。その礎となった最初の入学生たちこそ、75年前に中村校舎での入学記念写真に収まった商学部1期生たちだった。
戦後の学制改革により、1949年には全国168の新制大学(国立70校、公立17校、私立81校)(文部省)が開学した。名城大学もその中の1校として誕生。1947年に開設された名古屋専門学校からの昇格で、設置者は財団法人名古屋高等理工科学園(田中壽一理事長)だが、設置学部は理工学部ではなく商学部として1949年4月20日付官報に認可が告示された。
大学開設準備スタッフの一人だった平野広安氏は、『名城大学附属高等学校60年の歩み』に商学部が最初の学部として申請された経緯を寄稿している。平野氏は軍隊入隊前に田中氏の紹介で名古屋帝国大学の航空学教室の助手となり、戦後すぐ、田中氏の要請で名古屋高等理工科学校機械科の教員になったという経歴とともに、田中氏宅2階での設置認可申請作業の思い出を振り返っている。(抜粋)
思い出に残るのは、大学創設の申請書やその図面などのことで、田中先生のお宅で、色々と用事のお手伝いをしたことです。一寸手がすいて、一休みしていたとき、田中先生が私のそばに来られて、「平野君、実はね」と言われました。僕に何のお話があるのかと一瞬思いました。すると田中先生が、「法商より理工を先に創りたいが、法商を先に出した方が、理工を創るのにやりやすいようだからね」と言われました。 〝急がば回れ?と言うことでしょうか。要は理工が目標のような口吻(こうふん=くちぶり)でした。先生のご専攻から、当然のことでしょうと思いました。とにかく、先生は、学校にことに格別熱心でした。之が結局功を奏して、今日の名城のように大きくなったのだと常々感じております。
平野氏とともに田中理事長宅2階での大学設置認可申請書を作成にあたった山本修三(元理工学部事務部長)が書いた申請書作成担当者7人の配置図が名城大学あてに郵送されてきた。2014年当時だが、山本氏から渉外部に届いた封書には以下の手紙が添えられていた。
「前略。私は名城大学設置認可申請書を作成したメンバーの一人です。それは、昭和23年の事です。参加メンバーは次の通りでした。桜木俊一教授(法)、今井鋹生事務局長、坂田平七郎、山本修三、螺澤一男、平野弘安、村上藤吉の七名です。枇杷島にあった田中壽一先生宅二階南の部屋で作成されました。私は一番年下のメンバーでした。」
配置図には、「いつも忘年会はこの部屋で行われました」とも書き加えられていた。山本修三氏は1971年当時の理工学部事務部長で、同学部同窓会報8号には山本氏の事務部長就任のあいさつが掲載さている。山本氏は「私は昭和37(1962)年10月まで、中村校舎の木造時代に教務係をしておりました」と自己紹介している。
1期生74人の「学友名簿」
商学部1期生の大半が1953年3月に卒業したが、水野氏は卒業時の「学友名簿」も所蔵していた。入学時の「商学部第一部」は、卒業時は「第一法商学部商学科」に変わっていた。名簿に収録された卒業生は74人。ガリ版刷りで、席次、氏名、生年月日、現住所、出身校、所属専攻、就職先、特技、就職先住所が記載されている。 生年月日をもとに、1949年4月1日時点での入学年齢を見ると、18歳が30人(40.5%)、19歳22人(29.7%)、20歳10人(13.5%)で、1925年1月生まれの24歳もいた。 出身校が新制高校と推定される卒業者は28人。半田中、岐阜一中、東邦商業学校など旧制中等学校と書いた卒業生が21人。名城大学の前身である名古屋専門学校出身者14人を含めた早大専門部など旧制専門学校出身者は17人だった。
水野氏は1943年4月に旧制東京府立二中に入学。学制改革で1948年に新制高校が発足したが、水野氏は新制の都立第二高校(立川高校)3年生に進級し、1949年3月、同校第1回卒業生となり、名城大学でも1953年3月に22歳で第1回卒業生となった。 初代応援団長だった山田昭治氏も1期生。名古屋の私立工業学校を経て1948年に名古屋専門学校応用物理学科に入学したが、学びたかった建築科ではなかったため商学部に進路変更した。 名簿には初の女子卒業生となった岸本三和子さんの名前もある。「名城大学新聞」第5号(1951年2月3日)は、「さる27、28日に行われた第1次入試に南山大学講師岸本氏夫人三和子さん(22)は商科の編入試験に合格した。夫人は神戸経済大付属経営学専門部卒」と紹介されている。岸本さんが水野氏と同じグリークラブ(コーラス)部に所属しており、水野氏のアルバムにその写真も残っていた。
就職先では銀行や証券会社、名古屋市役所、熊本県庁など。在学中は部活として関わったとみられる「特技」では空手、柔道、卓球、テニス、野球、拳闘、スキー、乗馬などのほかに球算、油絵の書き込みもある。
2024年度で20万人近くに及ぶ名城大学の卒業生たち。その礎となった最初の入学生たちこそ、75年前に中村校舎での入学記念写真に収まった商学部1期生たちだった。