特設サイト高校野球部創部と田中壽一校長
終戦翌年の創部
附属高校に硬式野球部(以下野球部)が創部されたのは終戦翌年の1946(昭和21)年。甲子園での中等学校野球大会は戦争のため1941(昭和16)年春の大会を最後に中断され、1946年に第28回夏の大会が西宮球場で再開された。 食料も不足し、ボール、バット、グローブなど野球用具をそろえるのが難しい時代。それでも産声をあげたばかりの野球部員たちはさっそく夏の大会愛知予選に挑んだ。校名は名古屋高等理工科学校中等科だが、『全国高等学校野球選手権大会70年史』(朝日新聞社、以下「大会70年史」)によると新聞表記は「名古屋理工」。1回戦で一宮商業に3-7で敗れ初陣を飾ることはできなかった。 『名城大学附属高等学校60年の歩み』(以下「60年の歩み」)に収録されている卒業生座談会で、創部メンバーの1948年卒の西川勤也氏は、野球部の船出を田中壽一校長が暖かく見守り、応援してくれたことを回顧している。 「部員は20名ほど。校長先生の家へご招待にあずかったことがあります。ちょっと意外なことだと思うのですが、食事に3回位行きました。うるさ型の校長であり、当時、皆から敬遠されるような校長だったと思うのですが、奥さんが優しかったのでしょうか、野球部の者に対してはそうした心づかいをしてもらった記憶があります」 「大会70年史」によると、創部2年目の第29回(1947年)大会予選で名古屋理工は準々決勝に進出し、ベスト8に輝いている。▽1回戦 名古屋理工6-1名古屋中▽2回戦 名古屋理工3-1昭和中▽3回戦 名古屋理工13-0豊橋二中▽準々決勝 岡崎中9-2名古屋理工――という戦績だ。
鳴海球場に現れた田中校長
創部3年目の1948(昭和23)年、学制改革により、旧制中等学校は新制高等学校に生まれ変わった。名古屋高等理工科学校中等科は名古屋文理中学校、名古屋文理高等学校として再出発した。申請手続きの遅れで設置認可されたのは6月22日だった。このため、新制高校として初の大会となった夏の甲子園第30回大会愛知予選には、新校名ではなく、「名古屋理工」での出場となった。 それでも2年連続ベスト8入りを果たした。▽1回戦 名古屋理工2-0愛知師予▽2回戦 名古屋理工3-2名古屋市工▽3回戦 名古屋理工2-0愛知▽準々決勝 豊橋5-2名古屋理工。 『名城大学附属高等学校の歩み』(30年史)への寄稿で、当時野球部長だった螺澤一男元校長は「新制高校でないと出場資格がなく、申し込みを受け付けてもらえず大変困ったが、やっと認可になり滑り込みで参加できた。それが順調に勝ち進みベスト8入りできた」と振り返っている。試合は鳴海球場で行われたが、螺澤氏は「ほとんど顔を出されたことのない田中校長にも、この時は応援に出てもらったことが思い出される」とも記している。 名城大学の開学は1949年。1947年9月22日に開校した名古屋専門学校を母体に総合大学を見据えた名城大学の開学準備に、田中氏は超多忙の日々だったに違いない。
「雲の上の人がスポーツを理解した最初のチャンス」
創部メンバーの一人で、「60年の歩み」座談会に参加した木村信夫氏(1947年卒)も田中校長が応援に現れたこを語っている。 「田中先生といいますと、我々には雲の上の人というような感じで、近寄りがたい、そばにいって物が言えるようなふうではありませんでした。スポーツに関しては、ほとんど関心を示さなかったタイプの方だと思うのです。いわゆるスポーツというものを本当に理解した田中校長の最初のチャンスは野球を見に行ってからではないかと思います」(要旨)。 名古屋文理高校の校名では初となった第31回(1949年)大会愛知予選。1回戦で東邦高校に3-0で勝利するも2回戦で岡崎高校に0-7で敗退した。1951年3月には学園組織が「学校法人名城大学」に組織変更されたため、校名も現在の「名城大学附属高校」に改められた。新聞表記「名城大付」で初めての第32回(1951年)大会愛知予選では2回戦で中京商商業(現在の中京大中京)に0-12で大敗した。 野球部は学校創立100周年を迎える2026年に創部80周年となる。甲子園出場に最も近づいたのは1988(昭和63)年夏の第70回大会だった。決勝戦まで勝ち上がり、愛工大名電に7-8で惜敗した。夢の甲子園まで1点差に泣いた県大会初の準優勝だった。