特設サイト【名城大学通信第46号】名城大学物語
夢と挫折が交錯した駒方校舎と中華交通学院の物語~チキンラーメン発明の安藤百福、社会学者呉主恵、そして名城大学~
名城大学は名古屋専門学校を母体に、大学昇格(学部増設)を実現するためには、新たな校地と校舎の取得が不可欠でした。本部があった名古屋市中村区新富町の中村キャンパスだけでは、設置基準を満たすことはできなかったからです。
創立者である田中壽一理事長が着目したのが昭和区駒方町にあった、名古屋陸軍造兵廠が工員宿舎として使っていた土地建物でした。
しかし、すでに校舎として使っている学校がありました。中華交通学院です。新中国の鉄道建設や交通整備を担う人材育成を目指したこの学校と名城大学についても、これまで知られることがなかった物語が秘められていました。(敬称略)
広報専門員 中村康生
理事長と学院長
中華交通学院は理事長の安藤百福(当時の姓は呉。後に日本へ帰化。1910?2007)、学院長の呉主恵(1907?1994)の2人の台湾生まれの中国人によって1947年4月に開校しました。一般の学校と違うのは全寮制で食事がつき、授業料は取らないという点でした。
安藤百福は世界初の即席めん(チキンラーメン)や世界初のカップめん(カップヌードル)などを次々と世に送り出し、世界の食文化に大きな影響を与えた日清食品の創業者です。呉主恵は日本への台湾出身留学生のパイオニアとして早稲田大学専門部政治経済科を卒業し政治経済学部と大学院に進学、大学院では社会学と民族学を専攻しました。早稲田大学商学部教授の職を辞し、名古屋に単身赴任し中華交通学院院長に就任します。
街には復員軍人や引き揚げ者、疎開先からの戻った人たちがあふれていた時代でした。百福は戦前、大阪を中心にメリヤス業など営んでいましたが、終戦で兵庫県の疎開先から戻り、大阪府泉大津市で、若者たちを集め、放置されていた鉄板に海水を流し込む自己流の方法で製塩業を起こしました。この製塩事業について百福は、自伝『魔法のラーメン発明物語』(日本経済新聞社)で、「若者たちには、当時として決して少なくない金額を支給した。給料ではなく奨学金のようなものである。募集するとたちまち百数十人が集まった。やっていることは社会奉仕に近かった」と書いています。
1万5000人の志願者
中華交通学院の経営についても百福は製塩事業と同様な発想でした。新しい中国の建設を担う有為な若者を集めて、食を与え、技術を身につけさせたいと思ったのです。設立の契機について自伝では、交流のあった運輸省鉄道総局長官だった佐藤栄作(後の総理大臣)の助言を挙げています。「これまでの日本は中国に迷惑をかけた。中国は広いから、民生の安定のためには鉄道、自動車などの交通整備が必要になる。将来、技術協力できる人材を養成してはどうですか」。
中華交通学院の開校には社会からも関心が寄せられました。1947年1月11日付の朝日新聞(大阪本社発行)は「交通学院へ志願者殺到」という記事を掲載。「日華両国の学生が寝食をともにし、両国人の心からなる理解を深めつつ、大陸建設に最も要求されている交通技術を専攻」と学院の狙いを紹介したうえ、「将来大陸に雄飛しようとする青年の志願者、とくに復員引揚者が殺到。4月1日開校に向け、学院は衣食の完全給与、日華同居の宿舎整備を急いでいる」と書いています。呉主恵の著書によると、志願者は1万5000人に及びました。
「交通による建国」孫文の夢に挑む
主恵も中華交通学院に、国父である孫文が描いた「交通による建国」実現の夢を託しました。建設資金一千万円を出し、理事長に就任した百福に対し、主恵は教育運営の責任者である院長として名古屋に乗り込みました。名古屋は全く不案内の土地でしたが、名古屋駅付近の旅館に陣取り、学校建設の仕事に取り掛かります。名古屋に進駐していた米国第五空軍将校エリオット少佐に会い、学校建設の狙いを語り、昭和区駒方町3丁目1番地の兵舎(土地4万2900平方メートル、校舎1万2540平方メートル)の使用許可を得ます。
学院は当時の中華民国教育部の学制をもとに、中華民国の専科学校と日本の旧制専門学校のような形が構想されました。3年制で、(1)交通管理科 (2)交通機械科 (3)交通土木科の3コースを設けることになり、教員は20数人。名古屋大学から11人の教授を教授待遇で招くことができました。
新たな世界主義への賛辞
1947年4月1日、開校式が挙行されました。第1期生は日本人50人、中国人10人で計60人。自著『教育と研究?教壇生活四十年回顧録』に主恵はその時の感動を記しています。「当日、多数の来賓、華僑、及び学生を前にして、中日両国語で力強く開校を宣言した。日本において中国人が最初に設立した専門学校はこうして、ここに誕生したのである。私は心の中では、この中日関係史の一頁となる出来事を孫文先生の墓前で報告したかった。機会があれば、もう一度、南京郊外にある紫金山の中山陵に行きたいと思っていた」。
敷地外に病院も併設され、広い駒方校舎の敷地には、土地が耕され、野菜や芋が植えられました。こうした中華交通学院の教育実践を「新たな世界主義」として注目している文学者がいました。大正から昭和にかけて活躍した豊島与志雄(1890?1955)です。豊島は一高から東大に進みフランス文学を専攻。多数の小説や童話を発表したほか、「レ?ミゼラブル」「ジャン?クリストフ」などの翻訳を手がけ、川端康成や太宰治らとも親交がありました。
豊島は中華交通学院に、「嬉しい一例を茲に挙ぐれば、中国人呉主恵氏の経営する中華交通学院というのが名古屋にある。この学校は、学内で一社会を形成するような特殊の組織を持ち、将来中国の鉄道技師として働 き得るだけの能力を、多数の日本青年が習得しつつある」(『豊島与志雄著作集第6巻』)と賛辞を送っています。
主恵の回顧録によると1期生は1949年3月に卒業していますが何人かは不明です。
経営の不振と名城大学との合併
しかし、中華交通学院は開校からほどなくして挫折します。学院の経費一切を百福個人に頼っていた経営構造からすれば当然の帰結とも言えました。百福は中華交通学院(中交学院)開校翌年の1948年9月、泉大津市に、日清食品の前身となる「中交総社」を設立していました。しかし、GHQから脱税の嫌疑がかけられます。製塩事業で若者たちに支給していた奨学金が所得とみなされ、源泉徴収して納めるべき税金を納めていないという摘発でしたが、当時の反税運動を抑えるための見せしめ的な逮捕とも言えます。
自伝によると、百福は1948年クリスマスの夜、連行されました。大阪の軍政部で裁判が開かれ、たった1週間で「4年の重労働」いう判決が下され、大阪財務局から財産が差し押さえられ、身柄を巣鴨プリズン(東京拘置所)に移されてしまったのです。無実の罪ながら、2年間の服役を余議なくされました。百福からの資金が途絶えたうえ、中国では内戦で中華人民共和国が成立。中国の将来も見通せなくなり、中華交通学院は開校2年目にして暗礁に乗り上げてしまったのです。
百福は理事長を辞職。学院再建はすべて学院長である主恵に負わされました。そして、名古屋大学の仲介で合併を提案してきたのが名城大学理事長の田中壽一(1886?1960)でした。
名城大学と交渉
1949年4月28日、名城大学代表者の田中壽一理事長と中華交通学院代表者の呉主恵学院長の間で「中華交通学院が名城大学に合流発展するため」の15項目の仮契約が結ばれます。名城大学は4週間前の4月1日に開校したばかり。さらに大学の規模拡大を図ろうとする勢いの中での締結でした。
「中華交通学院の建学綱領に従い、名城大学は中国との親善に努力す」「大学の名称を可及的速やかに国際大学に改称することに努力す」「呉百福氏を名誉顧問に、呉主恵氏は名誉学長とす」「名城大学の工学部は直ちに中華交通学院へ移轄し、陣容を整え明年度に於て中華交通学院の交通学科も大学に昇格せしむ。昇格に至る迄中華交通学院の名称を存続す」――。
主恵の願望が強く盛り込まれた仮契約は取り交わされたものの、具体的な詰めでは合意は難航し、学院は名城大学に引き継がれることになります。
「私はすっかり、〝教育者である〞という自信を失ってしまった。今後私に残された生涯は、教育者としての活動ではなく、学者として研究を立派に守っていきたいと固く心に誓った」。回顧録に書き残された主恵の教育者としての敗北宣言でした。1951年3月、主恵は学院長を辞任します。
『名城大学75年史』は「田中理事長は、中華交通学院と提携することによって、建物の大部分を名城大学の校舎として使用することに成功した。そしてその後、建物の全部を名城大学が使用することになった」と記しています。
歴史的事実の証人として
主恵は社会学者として、『漢民族の研究』『民族の海外移住研究とその民族的基礎に関する研究』『民族社会学』など多くの論文や著書を残しました。中華交通学院の経営が苦境にある中でも、執筆意欲は衰えることはありませんでした。数多い著作の中でも代表作ともいえる『漢民族の研究』を刊行したのは1949年8月10日。回顧録で主恵は、「私はこの著作に台湾出身の面目を賭けて、大陸の中国人に見せたかった。それは、51年間、日本の統治下にありながら、これだけの中国知識があることを認識してもらいたかったからである」と書き、英文の手紙を添えて同書をニューヨークに住むパールバック女史に送ったことを紹介しています。
回顧録の「学院の合併そして閉鎖」の章は、「私は今でもこの誰も知らない華僑史の一面を綴る苦しい思いを持って、中華交通学院がかつて日本に存在した一駒の歴史的事実の証人として生きているものである」と締めくくられています。
苦悩の社会学
主恵は1951年3月、中華交通学院長を辞任。名古屋を去り同年、東洋大学文学部教授となり、研究活動に打ち込みました。「私の社会学は、私が日本に生きることの苦悩の中から生まれてきたものである。この苦悩という情念を社会科学の学理という枠組上に座標化したものである。従って私の社会学は、一口で言えば苦悩の社会学であり、私は悲劇の社会学者である」と言い続けた中国人社会学者?呉主恵。1994年2月16日、日本の地で87歳の生涯を終えました。
東洋大学大学院博士課程で呉主恵教授に師事した佐賀大学文化教育学部の田中豊治教授(65)(社会学)は恩師への思いを「呉先生は多種多芸というか、求められたら断るな、仕事は断るなという考えでした。キリスト教徒として当然であるかのように、神から与えられた試練ととらえ、自分が問われているからと立ち向かった。私も感化されました。朝3時か4時には起きて、8時、9時ごろまでは執筆に専念していた。抜群の集中力でした」と振り返ります。「中華交通学院がうまく行かなかったという話は何度か聞きました。頭一つで生きてきた呉先生には経営能力を求めるのは無理だったと思います」とも語りました。
田中教授は1996年、恩師の研究について論文『アジア社会論への社会学的視座?中国人社会学者?呉主恵の学問と生涯?』を書き上げました。2013年1月、論文の存在をネット検索で知ったという女性が2人の小学生の男の子を連れて佐賀大学に田中教授を訪ねてきました。「祖父について知っていることを教えてほしい」。女性は主恵の孫でした。
福岡県立伝習館高校の田中壽一コーナー
佐賀市から名城大学創立者?田中壽一の出生地、福岡県柳川市へは、バスで50分で行けることを知り、田中教授への取材を終えた翌日朝、佐賀駅前からバスに乗り込みました。壽一の母校である福岡県立伝習館高校に三宅清二校長を訪ね、事前に依頼していた同窓会館内にある卒業生に関する資料の展示コーナーを見せてもらいました。文政7年(1824年)に藩学伝習館として開校以来、来年で190年を迎える長い歴史を象徴するかのように、詩人北原白秋(中退)、海軍大将?伊藤整一、外務省事務次官?森治樹ら多くの卒業生たちの写真や新聞 記事などが展示されているコーナー。その一角に、名城大学創立者?田中壽一の写真、明治39年3月、中学伝習館卒などワープロ打ちした経歴、『名城大学75年史』が置かれていました。
中華交通学院に理想を追い求め挫折し、一時は苦境のどん底に落ち込んだ百福と主恵。しかし、2人とも苦境をばねによみがえります。百福は「チキンラーメン」と「カップヌードル」を発明し、「中交総社」を日清食品に発展させます。主恵は東洋大学を1977年、70歳で定年を迎えるまで、『漢民族の研究』など多くの論文や著書を残し、日本の社会学に名を刻みました。田中壽一もまた、中華交通学院から引き継いだ駒方キャンパスを主舞台にした学園紛争に巻き込まれ退陣に追い込まれていきますが、名城大学はこの試練を糧に、壽一の夢を引き継ぎ新たな発展を遂げていきます。
安藤百福、呉主恵、田中壽一。3人の夢と挫折が交錯した駒方キャンパスから名城大学が、天白キャンパスに拠点を移すため撤退したのは1965年(昭和40年)12月17日。この時期にはめずらしく、夜来の雪が積もったこの日は、名城大学が中部地区最大の総合大学へと大きく発展していく節目の日ともなりました。
本記事は2013年夏発行の「名城大学通信第46号」を一部抜粋したものです。
役職等はその当時のものとなっております。予めご了承ください。