特設サイト【名城大学通信第48号】名城大学物語

学生たちが「名城大学号」を設計?製作した時代~「飛龍」設計の小澤教授や飛行機屋たちに導かれ~

  • 駒方校舎に突然現れた飛行機を見守る学生や教職員たち。左からSK式21DC型グライダー、プロペラのついたモーターグライダー、ヘリグライダー
    駒方校舎に突然現れた飛行機を見守る学生や教職員たち。左からSK式21DC型グライダー、プロペラのついたモーターグライダー、ヘリグライダー

 新制大学として発足して間もない名城大学に航空部が誕生したのは1954(昭和29)年12月と言われています。高額なグライダー購入に手が出なかった時代。大空を舞う夢を膨らませて名城大学に入学してきた学生たちは、自分たちで設計したグライダー「名城大学号」の製作に挑みました。戦時中、傑作機と言われた重爆撃機「飛龍」を設計した小澤久之亟教授の指導だけでなく"飛行機屋"と言われた民間パイロットら学外からの頼もしい支援に導かれ、学生たちは夢を実現させました。

広報専門員 中村康生

駒方校舎に現れた飛行機

  • 期待に名城大学の校章が書き込まれたモーターグライダー「スカイラーク」
  • 期待に名城大学の校章が書き込まれたモーターグライダー「スカイラーク」

 1958(昭和33)年4月29日。昭和天皇の誕生日でもあったこの日、名古屋市昭和区にある名城大学駒方校舎では入学式が行われました。午前10時から行われた式典には大串兎代夫総長、福井勇理事長代行者、各学部長、来賓らが出席。大串総長は1700人の新入生たちに、「向学心に燃え、この学舎に学ぶものは、その目的がまず第一に明確に把握されていなければならぬ」と訓示したことを「名城大学新聞」は報じています。

 講堂での入学式を終えた参列者たちには驚くべき光景が待ち構えていました。校庭に翼を広げたグライダー2機と奇妙な形をした回転翼のついた乗り物1機が並んでいたのです。理工学部機械工学科の学生たちを中心とする航空部の学生たちによって完成した自前のグライダーの命名式が行われるためでした。

  • SK式21DC型機のテスト飛行(パイロットは星野技師)
  • SK式21DC型機のテスト飛行(パイロットは星野技師)

 主役である「名城大学号」は、学生たちの手によって完成した2座席の中級練習機「SK式21DC型」です。ただ、その隣には、機体に名城大学の校章が入ったプロペラ付きモーターグライダー「スカイラーク」が堂々と翼を広げており、取り囲んだ見物人たちにはより本物に近い飛行機に見えました。最も小型の"飛行体"は小澤教授の指導による実験機「ヘリグライダー」です。

  • 完成したSK式21DC型機に乗り込む加藤平左衛門教授
  • 完成したSK式21DC型機に乗り込む加藤平左衛門教授

 校舎前を埋めた学生や教職員、新入生の親たちからは驚きの声が上がりました。祝日だったこともあり、小学生らしい子どもたちも目を輝かせ、興味津々の様子で、大学の庭に現れた飛行機に熱い視線を注いでいます。

 この貴重な写真を撮影し、保存していたのは、当時、理工学部機械工学科4年生で、航空部員だった則竹佑治さん(1959年卒)です。当時の理工学部長であり、和算の大家として知られる加藤平左衛門教授が「SK式21DC型」に試乗している写真も残っていました。命名式後、「先生、ぜひ試乗してみてください」と則竹さんが勧め、シャッターを押した時の1枚です。

設計から製作まで学生の手で

「毎日新聞」(1958年4月21日)は、「設計から製作まで全て学生の手によるグライダーがこのほど出来上がり、29日命名式が行われる」と報じていました。(要旨)

 名古屋市昭和区駒方町、名城大学航空クラブ(鈴木清二部長)では、部員の則竹佑治君(23)、酒井重範君(22)、吉田誠一君(21)=いずれも4年=らが主力となり、一昨年末、「自分たちのグライダーを作ろう」と申し合わせ、小沢久之亟教授の指導で、中級機(SK式21DC型)の試作設計に取りかかった。

 大学から与えられた35万円の製作予算ではとても材料も十分に買えないというので、夏休み冬休みも返上して青写真と取り組む学生たちの姿に心打たれた往年のパイロット、北区報徳町16、富士滑空機株式会社社長、小泉喜久男氏(47)は「技師つきで工場、工具を無料提供しよう」と助力の手をさしのべ、同社、星野三郎技師(43)を指導にあてることを決めた。

 空の先輩のあたたかい援助で、とんとん拍子に製作もはかどり、運輸省航空局の性能計算検査、材料強度検査もパス、このほど設計開始以来約1年半ぶりに機体の組み立てを終わった。翼の布を張ったうえ、29日の入学式で命名式を行い、大串総長、福井理事長代行者はじめ全学生が出席して「名城大学号」(仮称)と名づけられる。

 同機は翼長13m、全長6.8m、重量140キロ。2人乗りで操縦席が安定しているのが特色という。製作費は約70万円で不足分は小泉社長が負担している。5月中旬、小牧空港で滞空、飛行テストを行ったうえ、正式にクラブ所有機となるが、設計から製作まで学生ばかりのグライダーは戦後わが国でも初めて。

 小泉富士滑空機社長の話 ヘリグライダーやモーターグライダーは持っているし、名城大学も日本一機種のそろった大学といえましょう。

大空へのあこがれ

  • 富士木工作業所で製作に取り組む学生たち。後列中央の翼断面を左手で持ち上げているのが則竹さん
    富士木工作業所で製作に取り組む学生たち。後列中央の翼断面を左手で持ち上げているのが則竹さん


  • 各務原飛行場で小澤教授も同乗してのヘリグライダーの浮揚実験(則竹さん提供)
  • 各務原飛行場で小澤教授も同乗してのヘリグライダーの浮揚実験(則竹さん提供)

 則竹さんを埼玉県川越市の自宅に訪ねました。則竹さんは名城大学を卒業後、防衛庁(現在の防衛省)技術研究本部に勤務。定年を迎えるまでの30数年、自衛隊で運用する練習機、戦闘機、輸送機、飛行艇など多くの航空機の開発、試作機の強度試験、さらには新技術開発などに携わってきました。この間、国内留学した名古屋大学大学院では航空工学専攻修士課程を修了しました。

 

 則竹さんが大空へのあこがれを強くしたのは、小学5年生で終戦を迎えるまで、親の仕事の関係で台湾に住んでいたためです。"赤とんぼ"と呼ばれていた複葉練習機が頻繁に街の上を飛んでいました。当時の台北市内の街並みを再現した地図を広げながら、則竹さんは、"赤とんぼ"と呼ばれる日本軍練習機のイラストが書き込まれた飛行場を指さしました。また、5歳のころ、世界一周中のニッポン号が飛んできて、大人たちが空を見上げて「ニッポン号だ」と興奮していた記憶もかすかに残っています。戦後、日本に戻り、愛知県立一宮高校から名城大学に入学。航空部の仲間たちと、自前のグライダーづくりに夢中になりました。

 設計、製作を指導した小澤教授は「飛龍」の設計者として知られ、航空界ではカリスマ的存在でした。小澤教授の存在は則竹さんの人生にも大きな影響を与えました。

飛行機設計の夢を絶たれて

  • 学生たちに大空への夢を与え続けた小澤教授(退職記念論文集『音速滑走体』より)
  • 学生たちに大空への夢を与え続けた小澤教授(退職記念論文集『音速滑走体』より)

 小澤教授は1905(明治38)年、名古屋市中区に生まれました。愛知一中、八高、東京帝大工学部船舶工学科を卒業し、三菱重工名古屋航空機製作所に入社。朝鮮、満州、中国、ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、アメリカで航空機開発状況の調査、研究をし、「飛龍」の設計で陸軍大臣賞、軍需大臣賞を受賞しています。

 名城大学では名古屋専門学校教授を経て理工学部教授となりましたが、この当時の心境を小澤教授は論文『音速滑走体と超音速滑走体』(1978年)の冒頭に書き残しています。

飛行機の設計こそわが生命と、終戦までその任務に全力を捧げてきたが、終戦とともに、飛行機関係の仕事には一切関係しないようにとの指示を受けてからは、気の抜けた人生を送ることになり、過去を忘れようとしたが、少しでも速い飛行機を作りたいと願っていた身にとってはこのうえない苦悩であった。飛行機にタッチできないなら、地上乗物の速度を上げることに努力してみたい。幸いにも昭和23年末から名城大学で理工学部の講義を持つことになったので、余暇をこの目的を果たすための研究にあてることにした。

 戦争で敗れた日本はGHQによって航空機の研究、設計、製造を全面的に禁止されました。禁止措置が解除されたのはサンフランシスコ講和条約が発効し、航空関連法が施行された1952年になってからでした。

航空技術者の再就職先だった大学

 毎日新聞の記事に登場する名城大学航空クラブ(航空部)の鈴木清二部長も陸軍航空工廠の出身者でした。八高、東京帝大工学部船舶工学科卒で小澤教授の9年後輩です。なかなか見つからない航空関係の仕事を求めていた1954年6月、新聞で名城大学の小澤教授が低翼単葉のグライダーを中村校舎に近い庄内川の河原で飛ばしたという記事を見つけます。先輩である小澤教授を訪ねたのがきっかけで名城大学教員になりました。

 この「低翼単葉のグライダー」とは「ブルーバード号」(SK式31型)と呼ばれた練習機です。設計したのはやはり毎日新聞の記事に登場する星野三郎氏で小澤教授が監修し、小澤教授からの要請を受けた富士木工が製作しています。記事中の富士滑空機社は実際には富士木工社に社名を変えていました。

 この当時の機械工学科の今里隆次教授も東京帝大工学部航空学科卒で、陸軍航空本部監督官を務めた陸軍少将でした。在英大使館武官の経歴もあります。則竹さんとは機械工学科同期生でもある杉下潤二名誉教授(1959年卒)は「私たちが学生だったころの理工学部は、航空技術者だった人、軍関係の仕事に就いていた人たちの再就職先でした。機械工学科の実習工場の先生たちの多くも工廠(軍事工場)の出身者でした」と語ります。時代的には少しあとになりますが、名城大学には「飛龍」とともに名機とされる戦闘機「飛燕」の設計者で、戦後初の国産機「YS-11 」の設計にも加わった土井武夫氏(1904~1996)も教授として赴任、1973年7月から1977年3月まで学生部長を務めています。

 杉下名誉教授が小澤教授の指導で卒業設計として取り組んだのは今なら水上スクーターと呼ばれる「ウオータージェット」。審査では小澤教授から「動くのかね」と聞かれましたが、「先生からいただいた水力学の計算通りにしました。動きますと」と答えると、小澤教授は「そうか」と認めてくれたそうです。

民間パイロットの飛行機屋 小泉喜久男氏

  • 名城大学の航空部を支えた小泉氏(富士木工で)
  • 名城大学の航空部を支えた小泉氏(富士木工で)

 やはり毎日新聞記事に登場する小泉喜久男氏(1911~1978)の会社は、現在は二男の康史さん(69)が社長を務める富士製作所(名古屋市北区)に引き継がれています。

 康史さんによると、小泉氏は明倫中学(現在の愛知県立明和高校)出身。東京にあった田中飛行学校で飛行機整備の仕事に従事しながら2等飛行操縦士となりました。1936(昭和11)年に名古屋に戻り、名古屋の飛行学校教官をしながら、挙母町(現在の豊田市)の町有機「拳母号」のパイロットを務めます。「給料は出せないが好きなだけ飛行機に乗れるから」と誘われたからでした。

 小泉氏は1942(昭和17)年、名古屋市北区に富士滑空機株式会社を創業、グライダー製作を始めました。戦時下の学校ではグライダー搭乗訓練が行われ、富士滑空機は文部省、軍需省の指定工場にもなりました。しかし、空襲で工場は焼失。3機ほど残った複葉機は戦後、米軍兵士の目の前で燃やされてしまいました。

 しかし、小泉氏と飛行機仲間との関わりは続きました。中部航空連盟に出入りし、小澤教授や名城大学の航空部の学生たちとの付き合いが始まります。そして、少ない予算ながら自前のグライダーを作ろうとしていた則竹さんら学生たちを全面的に支援していきます。富士木工の作業場の一角で学生たちの作業が続きました。康史さんも小学生だったころ、小澤教授や則竹さんら学生たちの作業を見守っていた日々を記憶していました。

設計?製作する航空部から飛ぶ航空部へ

 駒方校舎に登場した、機体に校章が書き込まれ、「スカイラーク」と命名されたプロペラのついたグライダーも富士木工の星野三郎技師が設計。中日新聞社が中部航空連盟を後援していた関係で、中日新聞社の発注により富士木工で製作され、名城大学所有機になりました。しかし、エンジンの不調で本格的な試験飛行を行う前に、則竹さんが卒業後の1959年9月、駒方校舎で起きた火災で焼失してしまいました。

 SK式21DC型機が「名城大学号」と呼ばれたのは命名式の時だけだったようです。命名式後も試験飛行が続けられたため、則竹さんたち4年生は実際にこの練習機に乗ることはありませんでした。

 航空部は日本学生航空連盟に加盟する東海支部と関西支部の各大学航空部合同で、香川県高松市のお寺で合宿をしました。飛来機の少ない高松空港で、入門機に乗り込み、ゴムのロープをメンバーたちがV字型に引っ張ったところで杭につながれた機体が離されます。パチンコと呼ばれた練習です。機体は10mほど滑走して浮上。「高度10mほどですが、すごく高く飛んだ感じだった」と則竹さんは振り返ります。

 SK式21DC型グライダーが練習機として活躍するのは則竹さんたちが卒業後で、1968(昭和43)年ごろまで航空部唯一の練習機として学生たちを空に誘いました。

 航空部OBで、現在の航空部部長でもある理工学部機械工学科の前田隼准教授(1967年卒)も岐阜県の各務原空港で、SK式21DC型での初フライトを経験しています。木製、布張りの機体は、悠々と舞いました。「青空にふんわりと浮かぶその姿は女性的でもありました」と前田准教授は振り返ります。則竹さんらの卒業を境に、航空部の活動は設計、製作ではなく飛ぶことが中心になっていきました。航空部の所有機はその後、金属製、プラスチック製、カーボンファイバー製の輸入機となり、1000万円以上する現在の所有機はOBがオーナーのドイツ製です。

ヘリグライダーと音速滑走体

 則竹さんが名城大学に入学した当時の小澤教授はヘリグライダーの研究も進めていました。機械工学科の中でも小澤教授の影響力の強かった航空部、自動車部の学生たちが実験に動員されました。則竹さんも研究、実験を手伝い、卒業研究ではヘリグライダーをテーマにしました。ヘリグライダーは無動力の回転翼形式の航空機です。自動車などで曳航することで回転翼を空気力で回転させて浮揚しようというものでした。

 最初の実験は、風が受けられるだろうとの期待から、名古屋駅前の名鉄ビル屋上で行われましたが当日は無風で実験になりませんでした。則竹さんによると、新聞は「将来はビルの屋上から屋上へ飛び回ることが可能」と書きたて小澤教授を驚かせました。実験はその後も中京競馬場や飛行場など場所を変えて行われましたが難航。なかなか飛び立たないヘリグライダーに新聞は「走れども回らず」などと書き立てたそうです。

 小澤教授の実験はその後、音速滑走体が中心になっていきました。ロケットの推進力で時速1200キロの音速(マッハ)を目指した音速滑走体、さらには真空状態の中を、マッハを超す時速2500キロを目指した超音滑走体へと実験は突き進んでいきました。

 富士木工社長の小泉氏は1959(昭和34)年から始まる音速滑走体の試験でも全面的に小澤教授を支えていきます。農学部で行われた実験には従業員を引き連れて乗り込み、滑走軌道造り、写真撮影や測定も手伝いました。

昭和の時代とともに逝った飛行機屋たち

 小澤教授の自宅が富士木工に近かったこともあり、小澤教授は富士木工にはよく立ち寄りました。パイロット経験もある小泉氏にとっても小澤教授は特別の存在だったに違いありません。しかし、本業そっちのけでの名城大学の支援で、富士木工の経営は窮地に追い込まれていきます。康史さんが南山大学経済学部の2年生になろうとしていた時、小泉家では親族会議が開かれ、富士木工は康史さんを社長に再起を図ることになります。

 小泉氏は1978(昭和53)年4月26日、亡くなりました。67歳でした。戒名は「精進院航空日喜居士」。「若いころから一度突っ込むと夢中になってしまう親父でした。おかげで私は学生時代から資金繰りで銀行回りに追われることになりました」。苦笑交じりに語った康史さんでしたが、富士木工で則竹さんら名城大学の学生たちがグライダーを組み立てている写真がついた毎日新聞の記事コピーが愛おしそうでした。「仏壇に供えます。親父も懐かしがるでしょう」。

 小泉氏が逝って10年後の1988(昭和63)年12月14日、名城大学が紛争時代やその後の困難な時代に理工学部長、学長を務めた小澤教授も亡くなりました。朝日新聞朝刊に掲載された訃報記事です。

小沢久之亟氏(おざわ?きゅうのじょう=名城大学名誉教授?元学長、流体力学)14日午前1時18分、心不全のため、名古屋市の上飯田第一病院で死去。83歳。葬儀?告別式は15日午後1時半から千種区田代町瓶杁60ノ1の大乗殿で。喪主は長男正敏氏。第二次世界大戦時の重爆撃機「飛竜」の設計を担当。東京―大阪間を45分で結ぶ「夢の音速列車」の研究も進めていた。

  • 航空部時代を語る則竹さん(埼玉県川越市の自宅で)
  • 航空部時代を語る則竹さん(埼玉県川越市の自宅で)

 小澤教授が亡くなり、年が変わった1989(昭和64)年1月7日には昭和天皇が崩御。昭和の時代が終わりました。則竹さんは、「私がひそかに自負しているのは小澤先生のあとをついで、名城大学で飛行機屋になったのは自分一人だろうということ。自分こそ小澤先生の一の子分だろうと生意気ながら思っています。小澤先生がいたから自分も飛行機とともに歩む人生が送れました」。6月に80歳を迎えた則竹さんですが、今でも自分の青春時代があった名城大航空部のウェブサイトは時々見るそうです。「今年は10人近い新入部員が入ったようです。よかったです」とうれしそうでした。

本記事は2014年夏発行の「名城大学通信第48号」を一部抜粋したものです。
役職等はその当時のものとなっております。予めご了承ください。

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